Instagramを始めてしばらくして、こんなメッセージが届きました。
「発達障害に関する本を読みたいけど、読むことで子どもの障害を認めなければならないようで、怖くて読めない」
「本を読むことが障害を認めることになる」という考えがなかったため、このメッセージはとても印象的で、今でもよく思い返しています。
いつか、こういう方にも勧められるような本に出会えたらいいな。
そう思いながらたくさんの本を読んできて、やっと出会えたのがこちら。
堅苦しい解説はなく「大丈夫だよ、子育て楽しんで」と、背中を押してもらえたような読了感を味わえる素敵な本を紹介します。
「大学教授、発達障害の子を育てる」どんな内容?
著者の岡崎先生岡崎先生は情報ネットワークや情報セキュリティを専門としており、プログラミングやブロックチェーンなどに関する著書をたくさん出されています。
息子さんが発達障害と診断されてから、入門書、専門書、法令やハンドブックなど文献をたくさん読まれたそうです。
でも、専門書に書かれていることと現実は違っていて、それよりも役立ったのは個人の手記やブログだったと。
そういった経緯からこの書籍が生まれました。
子育てを通して、自身の幼少期・学生時代の頃を振り返り、当初何を感じ、どう考え、どう生きてきたのか。
そして、発達障害を抱える息子さんに対して感じることや、社会、福祉、精神科医への思いなどありのままに書かれています。
言葉にユーモアとセンスが溢れていて、軽やかで、とても面白い文章に一気に引き込まれるはずです。
13行目で、心を掴まれる
この本を読むまで、岡崎先生のことは知りませんでした。
たまたま目について購入した本だったので、そこまで期待をして読み始めたわけではなかったのですが……。
「はじめに」に書かれたこの文章に心が掴まれました。
正直なところ、何をしていいのかよくわかりませんでした。取り敢えず目を閉じたり耳を塞いだりするのはやめておこうと思いました。
子どもに障害があるという事実はなかなかの飲み込んだり咀嚼したりしにくいので、まるでそんなものはなかったかのように振る舞う戦略もありますが、それでいつの間にか障害の事実が消えてなくなるわけではありません。
きっとこの本には綺麗ごとは書かれていない。
そう直観しました。
著者の岡崎先生も、発達障害(おそらくASD)の特性をお持ちなのでしょう。それもそこそこの強い特性を。
思えば、ぼく自身に発達障害の要素があったのだろう。幼稚園では友達があまりおらず、でも本人はそんなことを一つも意に介することなく、ひたすら帝国海軍航空機のスペックを覚えて諳(そら)んじていたし、先生とはこんなやり取りがあった。
「どうしてお弁当のふたを開けないの?」
「誰が開けてくれるんですか?」
徹底的にズレていたのだ。
なんだか親近感しかありません(笑)
周囲の目には相当奇異に映っていたと思うけれど、これまで誰も気づかずスルーされてきたのは、当時の検査や周囲の理解が甘かったからだと語られています。
発達障害について、”岡崎節”で解説してくれているのですが、ちょうどいい塩梅。
堅苦しすぎず、分かりやすい。そして、ときどき脱線する話がまた面白い。
敢えて批判を承知で、コンピュータ屋としての拙い理解を示せば、知的障害はCPU(中央処理装置)がトラブルを抱えている状況であり、発達障害は入力装置(コミュニケーション装置)がトラブルを抱えている状況であると思う。
(中略)
ディスプレイやマウス・キーボード・タッチパネルといった入出力装置に問題があるコンピュータは、とてもとても使いにくい。どんなに内臓されているCPUが高性能だったとしても、である。
だから、知的障害より発達障害のほうが症状が軽い、社会に適応しやすいという話ではない。
そう、そうなの!そうなのよね!!共感の嵐です。
ご自身の経験に加え、得られた知識から、ユーモアを盛り込んでの解説を読んでいても、全然しんどくない、辛くならない。
本当に、いい塩梅なんです。
筆者の体験談が未来を照らす
分かりやすい比喩表現を用いつつ、子育てのエピソードに共感できる。
そして、ご自身の体験談から元気づけられる瞬間も。
よく自閉症者は人の気持ちが分からないと言われ、その際に心の理論、サリーとアンの課題が取り上げられます。
この心の理論についても本の中で触れられているのですが、うちの旦那が言いそうなセリフばっかりだな~と、おかしくてたまらない(笑)
最後には、こんな言葉で締めくくられていました。
ぼくだって、サリーの心には今でも同化できない。でも、サリーが得ている情報から、サリーはこれを知らないという事実を、視点の切り替えなしに推論できるようになる。別の回路をたどって、同じ答えに到達するのだ。
(中略)
まるで相手の心がわかっているかのように振る舞うことくらいはできる。大丈夫、人の心なんてわからなくても、日常生活なんてちゃんと回る。
学校教育、就学先の選択にも話が広がります。
特別支援学校、特別支援学級、通常級。共生教育に関して。
自身の学校生活のことも振り返られているのですが、子どもたちの将来を表情豊かに想像させてくれました。
苦手なことはあったし、先生から叱られることもあった。
でも、筆者は「幸せな子ども時代だった」と。
端から見れば、あんまり幸せそうな子には見えなかったはずだ。
正面切って、眉をひそめる大人もいたし、分別があって「これも多様性だよね」という態度がとれる大人も、その視線には同情と憐憫(れんびん)が絶妙にブレンドされているのがふつうだった。少なくとも、「うちの子もこうさせたい」と思うような子ではなかった。
でも、ぼくはこの上なく幸せだった。※憐憫…ふびんに思うこと。あわれみの気持。
幼少期を振り返り「辛かった」「しんどかった」といったネガティブな言葉が語られることが多いですが、そういった言葉を見聞きすると、将来の子どもと重ねて気持ちが落ち込むことがあります。
この「幸せだった」という言葉が、私が見ている子どもたちの未来を明るくしてくれました。
幸せかの判断は、本人次第
自閉症の特性のある子を育てていると、他者との関係性に苦しんだり、辛いことが多いのではないかと不安を感じずにはいられません。
幼稚園の集団生活でも不安はたくさんありましたが、就学に向けてさらに不安や心配は増えています。
友だちはできるのだろうか。
いじめられないだろうか。
集団の中で浮いてしまわないだろうか……。
周囲の子どもたちの成長に伴い、付いていけなくなっているわが子の姿を見ると心苦しくなります。
辛くないだろうか、寂しくないだろうかと、心配ゆえに長男の気持ちを勝手に推し量っていました。
周囲から見ると、どんなにつまらなそうに見える子でも、不幸なのかと心配になる子でも、内なる王国を持っているかもしれないのである。
表情がなくても、学校からすぐに帰ってきてしまっても、友だちが一人もいなさそうに見えても、一つのものしか食べられない子でも、本人はめちゃくちゃ幸せなのかもしれない。
私が、これまでの自分の人生の中で感じてきた
「友だちがいるほうがいい」
「いろんなものを食べられる方がいい」
そういった幸せは、あくまでも「私の幸せ」であり、子どもたちが同じようことを幸せだと感じるかは分からないんですよね。
何を幸せと感じ、何を楽しいと感じるかは人それぞれであり、「こっちのほうがいいよ」と押し付けるものではない。
自分が経験してきたことを、子どもたちにも経験させたい、楽しく生きてほしいと願うけれど、それぞれの楽しさや幸せを尊重したいと思います。
「今を楽しむこと」を気づかせてくれた
最後に「どうか、今を楽しんでください」というメッセージを伝えてくれています。
こんなことなら、あんなにびくびくしないで、もっとゆっくり子育てを楽しめばよかった。嫌われちゃうかな、とか遠慮しないでたくさんの場所につれていってあげればよかった。などと思います。
本書を読んでいただいた方の中にも、今まさに大変な時期を過ごしておられるご家庭があると思います。どうしても、先のことばかり考えたり不安になったりしがちですが、もっと今を楽しんでいいのだと思います。
長男が2~3歳の頃は、「ちょっとコンビニへ」もできないくらい外出が大変でした。
外出先は限られるし、行った先でもトラブルが起こったり、周囲の目を気にして、謝ったり、お願いすることもたくさんありました。
今だからこそ言えることですが、「もっとあの頃を楽しめばよかった」と少し、いや結構、後悔しています。
辛い、しんどいと嘆いてばかりで、もう二度と会えない小さな長男をもっと目に焼き付けておけばよかった。
もっと親ばかになって「かわいい、かわいい」と抱きしめておけばよかった。
もちろん、今も大変なことはあるし、これから先もしんどいことは待ち受けていると思うけど、過ぎてしまえば「そんなこともあったなぁ」といい思い出になるはず。
今の息子たちとの時間を、もっともっと大切にしなきゃなと気づかせてくれました。
文章が軽快で、ときどきくすっと笑える面白さ、共感もできて、最後には励まされる。
もし「発達障害に関する本を読むのが辛い」「子どもが発達障害かもしれない、診断されて育てる自信がない」と感じている人がいたら、ぜひ手に取ってみてください。
おまめ